ことばをことばで考えることばかり

コニチワ! 最近間違えてスケスケおパンツを購入してしまったふらんくです。まさか天下のユニクロにあんな機能性を無視したブツがあると思わんでしょ。尻が寒くてかなわん。

 

さて今回も締切ギリギリチキンレース参加権を獲得してしまったわけですが、10/30にまだ今月の記事がひとつも出ていないというこの体たらく! さすが愛すべき我々です! 時間になんてなんぼルーズだっていいんですからね。のんびりしないともったいないしょ。(個人の感想です)

さー今回私が書く記事は、多分あんまり面白くないと思います。スケスケおパンツのところがピーク。何だろう、備忘録に近いところがある気がします。今これを鴨川沿いの木漏れ日のかかるベンチで書いているんですが、すごーくいいお天気で、こういう日って何も深いこと考えられない。テーマがただでさえ人を選ぶのに、こんな状態で書いた文章が人の頭にすべりこめるわけがない。下手すると人を愛そうとか自然を愛そうとか言い出しかねないので、気を張って書いていこうと思います。地球っていい星だな〜。

 

スピッツばりに前奏が長いことでお馴染みなので、そろそろ本題に入ります。今回の記事はずばり、「ことばについて」! 大きく出たね〜。まあ言葉(以下この表記)と言っても、特に文章、読者の存在、言葉で伝えるということに関して最近色々と思う所があるので、ぼんやりその辺りでうろうろしようと思います。

私たちは、言葉を切り離して生きていくことはできない存在です。これは一見当たり前のことですが、人によっては「そうか」と思うこともあるでしょう。なぜなら、言葉を使わないでいよう、と思うのにも言葉を使って考えているからです。言葉はあまりにも人間の表現の根幹に癒着しています。これは人間の思考の限界にガッツリ関わっていると私は思うわけです。私が用いる言語は主に二つ、日本語と英語で、日本語に関しては母語であり日常的に使いこなしている言語です。英語はと言うと、一通りは扱うことが出来ますが、クジラ構文だとか仮定法過去完了だとか言われると、たちまち興味のない映画のポスターを眺めるような顔になります。恐らく語彙においては、日本語と英語で倍以上の開きがあり、英語で話している時に語彙の面で不便を感じる事がよくあります。

大学の講義で、英語のネイティブスピーカーと話す機会があります。有難いことに、彼はよく話しかけてくれるので、私は英語の運用方法を忘却することなく、ある程度のレベルを保っています。その会話の中で、私は思考の限界を感じます。思考の限界って何ぞや、と言うと、自分の頭の中で展開できる考えの端っこのことです。ちょっと概念的。私がこうして、文字を使って自分の考えていることを表現する際には、必ず思考の限界がどこかにあります。それは、自分の考えをどこまで言語化できるかということと同じです。全ての物には名前があります。りんごやらバナナやらの記号が物の概念にくっついているわけですが、裏を返せば、名前のないものはこの世には存在できないということです。言語化できない考えはこの世には存在できない、ゆえに思考の限界は自分の語彙がカバーできる思考の端っこということなのです。ちょっとややこしくなってきた。

私はこういうことを考えるとき、恐ろしさも感じますが、同時に下から強い風で吹き上げられるような高揚も感じます。何もサイヤ人の血が流れているとかそういうことではなく、言葉ってすげー! という原始的な感動です。すごくない? 言葉だって厳密に言えばこの世に存在していないくせに、物事の概念の輪郭をはっきりさせていやがる! 私は言葉のことが大好きです。

ふらんくは、大学では文学部に所属しています。そこで主に欧米の文学について学んだりしています。先日フォークナーというアメリカの作家(超絶有名なモダンアメリカ文学の父です)について学んだのですが、彼の作風は難解であることで知られています。私は文学について、度々思うことがあります。それは、文学とは何のために作られるものだろうかということです。国語が苦手な人なら、一度は考えたことがあるんじゃないかな。国語が得意な人なら、もっとあるでしょう。私は小学生の頃から、国語で悪い点数をとった記憶がありません。でも国語の授業は嫌いでした。本を読むことは好きでしたが、国語の授業で感想文を書かされるのは嫌いでした。嫌すぎて本の内容と全然関係ないことを書いて、先生に廊下に連れ出されたこともあります。今考えると、単純に私の天邪鬼な性質に加えて、感想文を書くために本を読むという行為が嫌だったんだと思います。

本を読むと、感想を持たなければならないのか? これは、私が常々思っていることです。私はジャンルで言えば純文学が(読むのも書くのも)好きですが、それは感想を持つ必要がないからじゃないかと思うことがあります。最近、ふらんくは趣味で文章を書いていますが、読者の存在を意識するようになってから、文学とは何なのかという思いが少し強くなりました。私においては、何も人に読んでもらうために書いているわけではありませんが、それでも文章は人が読んで初めてこの世に存在することができます。言葉は、伝達の手段の一つです。受け手がいなければ、それは、頭の中にもやのように浮かんでいる思考の集まりと変わりはないと思います。この世には、私が読んだことのない本が太平洋を埋め尽くすくらい沢山あるでしょう。それらの本に載っている言葉たちは、私の世界には存在していません。人の主観に立ち入って話をするのはあまり良くないことかもしれませんが、その人の世界に存在していないものは、この世に存在していないことと同じだと思います。

 

私には、国語の授業で教えて欲しいことがあります。自分が、というより、言葉を扱う"人間"という存在が承知しておいて欲しいことです。それは、言葉を使って表現することがどんなにすごいことかという事実です。あえて平易に言います。きっといつか、言葉の限界に絶望する日が来るかもしれない。言葉で表現することの煩わしさを肌身で感じることがあるかもしれません。でも、自分と同じ言葉を使って、あるいは言葉という概念を持って、他の人々が周りに存在しているという事実がどんなにありがたく楽しいことかという話を、して欲しいのです。冒頭でも言ったように、これはあまりにも自然で、当たり前のことです。多くの人はこんなことを意識の端にすら引っかけないことでしょう。しかし、言葉がもしなかったとしたら、私はあなたにこの喜びを伝えることすらできないんですよ! ちょっと宗教じみてきたか……?

執筆陣に国語科教育を専門にしている人間が数人いるので、あんまりこういうことをつらつら書くとしばかれるかもしれません。私はあくまで言語というものを愛しているので、こういう思考になるのかもしれませんし、十中八九そうでしょう。この願いが実現したからと言って、私が得をすることは何もありません。ただ、あそこのうどん屋さんの山かけうどんがおいしいよとか、この角のパン屋さんのクロワッサンが最高とか、そういうのとちょうど同じようにして、人に知らせたいだけです。

予告通り取り留めのない文章になっちゃった。まーでもメモみたいなもんなので(ブログでやるな)別にいいとも思います。こうやって文字に残しておけば、きっといつかどこかで滲むようにして存在できる日が来るかもしれない。2021年の昼下がり、紀元前の壁に彫られた文字に思いを馳せる秋風の午後です。